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マルガリーターは恋の味 [黄昏に向かって]

今夜の川越、伊佐沼で恒例の花火大会が行われています。本当は私花火は大好きです。でも見物したのは幼い時分だけです。場所は文京区の江戸川橋という所です。橋の下は神田川になります。この橋からは隅田川の花火が良く見えたものでした。今でも音羽通の高いビルからはよく見えるそうです。
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私と母は東京生まれの東京育ち、祖母は16歳の時に茨城から祖父と出てきました。その後は焼け出される迄九段下で暮らしていました。いわゆる江戸っ子の私たちはほかの人もそうであったように、隅田川の花火見物には格別の思いがありました。「ほら、今度は仕掛け花火だよ」と祖母が言えば「わあ~綺麗~」とはしゃぐ私。父のいない私が思いっきりはしゃげる日でもありました。
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私が7歳になった時、新宿区早稲田へ転居した私たちは、もう花火見物は行かなくなりました。隣町なのですが、母の仕事も忙しくなったからです。母は早稲田は学生町なので麻雀やさんがいいと思い開業しました。しかし女三人の所帯ではちょっと難しいと知り、その後下宿屋さんをはじめました。
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その下宿屋はたいそう繁盛し、そのおかげで私は何不自由なく暮らすことができました。
いつの間にか19歳になってた私、体育の時間に学んだ社交ダンスが大好きになり、その後はすこし年上のUちゃんにダンスホールへ連れて行って貰うようになりました。
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渋谷にあったハッピーバレーというダンスホールには一番多く行った気がします。渋谷へは早大前から都バスで行けました。いつもかなり賑わいました。時々楽団演奏で踊れました。私はジルバとタンゴになると踊りたくて、踊りたくて。そのホールで知り合ったN大学の3年生Wさんと夜が更けるまで踊りました。
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その頃我が家では祖母も亡くなっており母と二人暮らし。私は大学受験も諦め、外に出る口実のアルバイトと社交ダンスに明け暮れる日々でした。大勢の下宿生さんの食事は母が一人で作っていました。そんな生活が1年ほど過ぎ私は20歳に。心配した母の勧めでお見合いもし、専門学校にも通っていました。その頃にはWさんも卒業し関西に行ってしまいました。
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しかし運命とは不思議、偶然出会った8歳年上のTさんに私は一目ぼれ。結婚したいと母に言うと猛反対。しかし何が何でも一緒になりたいと、高円寺のアパートを訪ねました。遅くになって帰ってきたTさんから「家に帰りなさい」と冷たくあしらわれ泣きながら母の所に戻りました。
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1ヵ月ほどして、有楽町で待ち合わせた私達、西銀座デパート近くのそのスタンドバーはもう顔馴染みになっていました。物静かなバーテンダーさんがマルガリーターをそっと置きます。ソルトを振る加減がプロフェッショナルです。時間が過ぎ、遅れたて来たTさんから意外な言葉を聞きました。
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話はその少し前に遡ります。Tさんはご両親に私を逢わせようと私の自宅へ電話を下さったそうです。しかし母は私が風邪で寝ていて逢わせられないと言いました。仕方なくご両親は九州へ帰られ、その後Tさんは結婚、子宝にも恵まれたそうです。
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心の痛手が深いまま私は23歳の夏を迎えていました。その年の春には専門学校の3年間も無事卒業、いよいよ青春とお別れすることにした私です。そしてまた一年が過ぎた頃、やっぱり結婚しよう~と思いました。母と二人の平凡だけど安定した暮らし、不満がある訳ではありません。しかしやっぱり母親になりたかったのかも知れません。あれから半世紀、結局私が母になる日は有りませんでした。
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