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ルージュと口紅 [青春の残像]

所謂、私自身を聞かれたら勿論『女性です』と言うに違いないけれど、最近は本当に女性らしい生き方してきたか疑問を持つようになりました。

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私たちの時代は『結婚』は女の目的に近かった気がします。23歳になった時、行き遅れてはと焦った思い出があります。当時はまだ学生だったのですが、四国から来ていたONちゃんが結婚したことを切っ掛けに私は急遽「結婚する」と母に言いました。誰と? 母は本当にキョットンとしていた気がします。

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子供時分から知っていた「YTさん」と空かさず答え、その秋に私たちは彼の母校にある大隈会館で挙式しました。私の家は早稲田で下宿屋さんを営んでいたのですが、お婿さんのYさんは、埼玉県川越に住んでいたのでした。私とは11歳違う大人の男性でした。

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川越の霞が関で新婚生活を始めたものの、何もできない私に連れ合いは吃驚、半年足らずで実家に私は戻りました。その後母の仲裁で、夫も実家に来て母と若夫婦とで暮らす事になりました。子供のできない寂しさに初めて犬を飼いました。アメリカンチャンピオンの血統を持つマルチーズです。彼女はあと2カ月で20年という長い期間を母の愛情に包まれて生きました。

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さてその母と私、事あるごとに母は私を手こずっていた気がします。18歳で祖母が亡くなり、結婚までの間、私は母に反抗し続けました。とにかく家から出たくて色々試みました。留学もその一つと時を伺っていました。その頃、早大理工学部のI先生がアメリカに家族で行くことになり、私にも勧めて下さいました。始終反抗している私への対策を考えてくださったのでした。

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先生は故郷の家族と離れ我が家に下宿されていたのです。早速先生から母に留学の件を話して下さったのですが、母は大反対。かくして私が憧れの国に行けたのはその35年ほど経ってからとなります。

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さて話は戻りますが、昭和43年の頃は東京の彼方こちらで区画整理が行われていました。私たちの新宿区早稲田にも道路を拡幅するための区画整理が始まり我が家は拡幅される大通りに面することに。しかし土地が30%以上を減歩されペンシルビルになるしかありません。母は悩んだ末、移転を決心しました。そこで義理の息子(当時の夫)の家がある川越に転居すると言いだしたのです。

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こうしてきっとご縁があったのでしょうね。母も川越の女(ひと)になりました。しかし同じ川越でも夫と私は北二丁目の家。母は東5丁目にアパート併用住宅を建てました。その頃の母は50代後半、私は20代後半でした。しかし運命とは不思議なもの、いいえ意地悪。移転して間もなく夫は海外に行くことになってしまったのです。東南アジアの某国。勿論社命で夫婦は同伴です。任期はなんと5年。勿論母は大反対。しかし私は夫と出発しました。しかし間もなく母が入院して私は呼び戻されることに。その後私は再び夫の基には戻れませんでした。33歳で離婚。所謂、女の厄年でした。

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私の母は化粧のする必要の無い程の美人でした。その点で私は母に相当コンプレックスを持っていました。こんな話があります。中学生の頃の事、「お母さん、もう中学生の親なのだから口紅つけるのやめて!」きっと睨みながら言った覚えがあります。多分PTAの会などでは着物姿に口紅つけた母は目立った存在でしたから私はそれを気にして母に言ったのだと思います。当時の私は色黒でゴボウのように細い女学生でした。

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そして母に対抗するように、私は20代を待たずに口紅を付けていました。しかしそれは母の様に真赤ではなく、バントピンクという淡い色でした。日本の口紅より艶がある輸入品の口紅。母は国産の口紅です。化粧する母の姿はまるで映画のワンシーンのようでした。そのふっくらした唇に朱赤の口紅を塗り、最後に小指ですぅーとなぞります。そして満足そうに鏡を見る母。綺麗でした。本当に絵のように綺麗でした。
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母は口紅をつけ、子供以上女未満の私はルージュを付けて、やがて私は妻になりました。まさに女の宿命です。そして今年で75歳になった私、どんな巡り合わせでこうなったのか国産で無香料の安価な口紅を愛用しています。それも一番赤い、母の口紅と同じ朱赤の口紅。やっぱり母娘だからなのでしょうね。
 (※今日は写真がなくて昨年12月に撮ったものを使っています)

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ところ変われば…。 [青春の残像]

幼い頃の話なら10分も話せば種はなくなってしましますが、成人してからの行動や思考については今でもよくわからないところがあります。現在の私はどのあたりの私と似ているのかと考えてみると、案外中学生の時代の一番真面目だった頃によく似ている気がします。勉強がすきな努力家。でもちょっぴり夢見がち。
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あの頃の我が家は大隈講堂のある大通りと早稲田通りの間にある住宅地の中にありました。家の前はホームランというお寿司屋さん。左隣はクリーニンング、その他理髪店に酒屋さん、婦人服のお店、ペンキ屋さん。家は細長い敷地の上に表通りから裏通り迄続く長細い2階建ての建物で、下宿屋さんを営んでいました。
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30歳まで住んでいましたからもう44年の歳月が流れていますが、ふとタイムスリップすることがあります。思い出が深いのは何といっても祖母が健在だった小学生の頃。縁側に座って物売りのアサリやさんと話す祖母の姿が浮かびます。その頃祖母の白い髪は断髪でした。浅利売り声が今でも思い出せます。
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アサリ屋さんは浦安から来ていたと祖母から聞かされていました。その頃の母は昼は喫茶店、夜は料理屋さんで働き私と祖母を養っていました。私が眠ってから母は帰宅するのですが、時々大きな折り詰めをもって帰宅し、夜中に私を揺り起こします。翌日大きな鯛を祖母にむしってもらい食べた記憶があります。昼間の母は美容院へ。
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家には時折呉服屋さんや紺屋(こうや)さんが来ます。玄関近くの座敷一杯に反物を並べ、母はしきりにその反物を肩にかけ鏡を覗きます。どれを買おうか迷っている姿を私はじっと見ていました。10代の頃になると、母は「都ちゃんどれがいいの?」機嫌がいいと私や祖母に新調して呉れる母でした。晩年、母は家一軒分では利かないくらい着物を作ったと言っていました。この紺屋(こうや)さんとは染物屋さんの事です。着飽きた着物はもう一度染め直して仕立て直して着るのです。私の羽織も母の着物を染め直したものでした。
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最近、私の住む川越では着物が大ブームです。観光客の方も着物で散策したり、逆に市民も着物で各地へ出かけ交流したりと。幼い頃からぽっくりや下駄を履いて遊んだ私、勿論大の着物党です。しかし着物は購入も高価ですが、それに伴う付属品の準備にも費用が掛かります。しかし今の私の暮らしぶりではとても高価な着物を買う力はありません。街着と言えども大島や結城などの紬はそうとう高額になりますし、帯も着物に合わせ季節ごとに変えてゆくので、普段着としてはなかなか着られません。そんなことあんなこと考えるとまた母の艶姿が目に浮かびます。ちょっとばかり神様、恨んじゃおうかしら。
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和服の母と歌舞伎座や、新橋演舞場へ。浜町の明治座へは新派を観にしばしば通いました。その為に家でも着物を良く着せられていました。しかし何の因果かこの着物ブームの街に住みながら、全く着物を着ない私。最近はステージも出ませんから本当に着る機会が無くなってしましました。なんという皮肉な運命かと嘆いた事もありました。しかしそれが運命とあれば仕方がないですね。
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母のタンスには今でも母の着物が沢山ありますが、手入れせずにはもう着られないかも知れません。そこで数年前から冬になると掛布団の上に好きな着物を掛けて寝る事に。正絹ですからとても暖かく、優雅な気分に浸れます。でもやっぱり何時かは髪をきりりと結って、母が好きだった履き心地好いあの草履を履いて、足袋はええと…舞台や踊りでは4枚こはぜを使います。何を言っても負け惜しみにしか聞こえませんね。でも母は言いました、人間は意地を持ちなさい!意地を。そうですやり通す意地を持たなくては夢はかないませんよね。
なのでいつになるか分かりませんが、この街で着物姿で歩く私が居るかも知れません。最後まで読んで頂いてありがとうございます。つい興奮して長文になりました。





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小さな春みっけ! [青春の残像]

ぐっすり眠った後の目覚めは最高です。それでも若い時分とは違ってそのまま昼頃まで寝てよう~、いいえ今はそんな馬鹿な事は致しません。
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朝食もそこそこにして庭に出ました。小さな庭ですから急ぐ必要もないのですが、鳥の声が気になったのです。出来れば撮りたいと思いました。しかし燐家の塀から飛び立ってしまいました。
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仕方がないので見えるものを次々撮ってみました。小さな紫陽花の新芽。朝日を浴びてとても綺麗です。次はあの可愛い実をつける多分グミ。これも若葉が伸びだしていました。今年も小さいけれど甘いグミ、なったら嬉しいな。
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そうそう庭の真ん中、珍しいあの低木も新芽の真ん中が白い花の蕾のように膨らんでいます。実はこの樹は柏葉アジサイというそうです。確かに葉が柏餅に使う葉っぱに似ています。でもこの時期の葉の状態は新芽だからでしょうか、グリーンではなく茶色や黄土色などが混じっています。
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その次に撮ったのは最近建ったマンションの脇にある多分シュロ。しかしこの樹、すでに建物の4階ぐらいまで伸びていて、唯一太陽を浴びて更に大きく手を開いています。
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朝のひと時、春の陽を浴びながらシャッター切る瞬間は、充分な自己満足の世界です。しかしその後には花粉が目まで入って痛い!痛いと。ああこれが現実。やっぱり私はドジなのですね。今夜はこれでおやすみなさい!


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能楽堂への想い。 [青春の残像]

春の嵐が吹き荒れた昨日今日、幸い私が住む川越地方は穏やかな天候に恵まれました。少し早い時間に教室を出て八幡神社へお参りしました。この神社へは此処に転居以来よく来ています。静かな佇まいが好きです。
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日暮れ間際の参道には蝋梅や梅の花が咲いていましたが、写真を撮るには時間がすこし遅すぎたようです。その後デパ地下で紅シャケのお寿司を買って帰宅。深夜になってからTVで歌舞伎の玉三郎さんの番組を観ました。
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私の母は歌舞伎や新派の舞台が好きでしたが、若い頃の玉三郎さんも大好きでした。その玉三郎さんの解説で踊り『藤娘』の舞台を観ました。私も小学生の頃日本舞踊を習っており藤娘はほんの少しだけ教えて頂きました。三郎さんの解説の中で能の話になり、大曲の観世会館の名が出てきました。私は余りの懐かしさに一瞬戦慄が走りました。
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観世会館のある大曲は毎日乗った都電の停留所があります。電車は停留所を大きく回り上り坂になります。その次の停留場が伝通院です。私はこの電車に乗り伝通院にある女学校に通っていました。女学校の授業で何回か観世会館で能を見物した気がします。半世紀という大きなスパンで一瞬にしてタイムスリップ。まさに夢のような時間でした。玉三郎さんの踊りも素晴らしく、この時間だけはPCの手を休めて見入りました。最高の料理を食べる至極の刻をも超える濃密な時間でした。




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八重狐、その謂れ [青春の残像]

氷上の演技を見ていると、なんと人の体は美しいのかと思います。同じ女性に生まれてもこんなに美しく生まれられる人は、やっぱり心も美しいのでしょうね。
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さて先日『八重狐』って決めたのですが、あれから思い直して『八重の狐』にしました。そう言えば一昨日もお稲荷さんを食べました。急に食べたくなったのです。でも油揚げは元もと好きなのです。フライパンで焼いて、晒したネギを載せお醤油をちょっと。本当に美味しいですね。昔は祖母も生揚げやがんもどきをよく煮て呉れました。
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さてその狐への想いは実は母にあります。東京から引っ越してきた家は目の前が公園でした。その公園にある樹齢50年ぐらいの大きな八重桜。『きっと桜の精が棲んでいるのね」と母がいいます。「やだ~怖いわ、お母さん!」と私。「あら怖いの、素敵じゃない、あたしそう思うわよ」他愛ない母娘の話です。
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時は過ぎて幼子のようになった母は静かにこの世から去って終いました。その時私は59歳、もう立派な大人です。夫もいました。けれど身を裂かれるような想いは今でも変わりません。母が命を懸けて私を守り育てたように、それ以上に私は母を愛しまなくてはいけなかったのに…。後悔の念は一生拭えません。
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それ以来、母は私の守護神であり師匠であり閻魔様でもあります。この世に残していて来た不甲斐ない娘を母はどんな思いで眺めているのでしょうか?
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以前の家を去る時、気のせいかあの八重桜が傾いていたのです。大きな洞があり野鳥たちがその羽根を休めたり、虫を啄んだりと。私はあの3年間、この樹の傍で暮らしていました。夜は目の前にある家に戻りますが、日長一日、この樹の傍で猫や鳥や蝶や花達と遊んで暮らしました。
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そして母に語り掛けます。この洞にいるのはお母さん? 引っ越しの日、夜逃げではないのに家具の殆ど、衣類もコートも冷蔵庫も、電子レンジも大きな机もすべて。大切な100枚入りのMiyakoのポスターまでも置き去りに。
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其の後家は壊され今は立派な家が新築されたと聞いています。行ってみたい!でもいつも思うだけでやめます。そんな訳で川越に来た昭和50年から馴染んだあの八重桜、母の姿を重ねます。その洞には母によく似た美人の狐がすむそうな…。これが『八重の狐』謂れです。
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推理小説 [青春の残像]

私は推理小説が大好きでした。今は自分の人生を、いいえ日々の生活を何時も推理しているような気がします。見たものと心が感じたものとの違いに始終悩んでいます。
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ある日私を射るような鋭い目を見た気がしました。昼下がりの街は大勢の人で賑わい彼女の孤独は誰にも気づかれないま時間が過ぎてゆきます。
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彼女の目に何が映っているのか、時折私と店員さんお会話を不思議そうに眺めて、また横を向きます。一瞬その目が鋭く光った時、5年という私の歳月が滑り落ちてゆく気がしました。
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私が体験したこのシーン、推理小説のプロローグになれるでしょうか?
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夕方沢山の小菊を頂きました。友人が丹精している畑で育てた美しい小菊、野趣豊かな小菊達のむせかえる様な甘い匂いが部屋いっぱいになりました。今日も好い一日でした。おやすみなさい。
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星のイヤリング [青春の残像]

小さな星屑のようなブルートパーズのイヤリング。ふと目に留まった乙女チックなイヤリングを買いました。誕生日の記念です。私には不似合いの気もしましたが、この夏の思い出にもなると思って…。
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兎に角、悲喜こもごも暑い夏も終わり、明日からは9月。数日かけて4年目に入った教室の資料を作成しました。2日もかかってしまい自分でも吃驚です。
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この程度の書類ならどう考えても1日、いいえ半日で作れた筈なのに。分厚い提案書だって、印刷屋さんへ依頼するチラシの原稿だって、こんなには掛からなかった筈なのに。そしてまた落ち込む私。おまけに信じられないアクシデントが続けて2件起きてしまい、ますます弱気になったまま一夜が明けました。
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それでも案外目覚めよく朝を迎えた今日、しかしその爽快感も数分で敗れました。喉がひりひりガラガラ。幸いなことに31日の今日は教室はお休み。そこで仲良しのⅠさんに連絡し二人でトンカツを食べに行く事にしました。
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ランチタイムなのですが、今日は奮発して分厚いメユーのトップページの中から選びました。大きなエビ2尾とジューシーなヒレカツの盛り合わせ、シジミの味噌汁までお代わりして大満足した私達でした。その後教室へ戻り彼女の提案でオールデイーの数々を熱唱。二人はもうすっかり乙女気分。
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興奮も治まった今宵、例によってパソコン開く私です。心の中から苦虫も弱虫も退散した心地よい時間を過ごしています。あの小さなイヤリングに掛けた星の願いのお蔭なのか、友情のお蔭なのか。とにかく明日からの秋に期待一杯の私です。

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乗りそびれた列車 [青春の残像]

今日は線路のお話。もっと詳しく言えば線路のそばで男と女が別れたお話です。あれは本当に遠い日の事。東京から川越にお嫁に来たのは23歳の時、今の川越郊外の造成地に作られた団地になります。まるで絵にかいたような郊外の一戸建て。広い庭には紫陽花やあの双葉より芳しと詠われた大きな栴檀もありました。
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結婚式を挙げる少し前にこの街に来た我儘娘が主婦になったのです。しかし12歳という年の差もあり、主婦業は思っていたほどの楽しさもなく、退屈が高じて次第に東京が恋しくなりました。東京の家からは都電に乗ると銀座まではそうかからず行けました。その頃40代の母は私を連れて銀座によく行きました。和装の多い母は草履や帯揚げ足袋を買い、私にはコックドール(月ヶ瀬)でパフエーなどを食べさせてくれました。
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そんな訳で嫁いでは見たもの周囲は見知らぬ人ばかり、しかも経済感覚の薄い私は預かった月給も20日余りしかもたず、あとは毎日同じおかず(いんげんの炒め物や、ごまよごし)が食卓に載るしまつ。私はとうとう癇癪起こし実家に帰る事になりました。
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駅までも道は商店もあまりなく舗装もありません。消防署を曲がるとそこはもう駅のそば。小さなボストンひとつ下げて、上りホームに出た私。程なくして上りが来ました。その時私は見たのです。線路の柵の向こうで夫が何かを叫びながら手を振っている姿を。ちょっと可哀そう~と思った私。僅かなシーンなのですが、不思議に印象深い青春の一コマ。
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そしてその後は可もなく不可もない人生が20年以上過ぎ、私と母は東京を去り川越に移転していました。私はそこから都内まで仕事に通っていました。6月のある日、鶴瀬という駅で降りた私、その日開かれる講演会に行くためです。会合も終わり出口へ向かう人波にもまれていた私の携帯に、メールが入りました。「出口で待つ」ただそれだけの。急いで出口に行くとタクシーに乗り込むメールの主が目に入りました。私も急いで乗り込みます。一瞬周囲のざわめきが聞こえました。
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私ちょっと優越感を感じました。つまりそこに集まった大勢の羨望の的になった訳です。10分程して車を降り、駅前の居酒屋さんに入った私たち。その方と向き合って座ったの初めての私は、すこしドギマギして意味不明の話をしたように覚えています。小一時間の後、私たちは駅の階段を上りフォームに立ちます。私は下り電車、その方は上り。暫くして下りがきたのですが、私は乗りませんでした。それを無視する二人。やや暫くして今度は上りが来ました。「じゃ、乗るよ」と私に告げて、上り電車に乗った人。
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だだこれだけの事、ただそれだけの話。駅のぼんやりした灯りと、少しぶっきらぼうなでも答えを待つような、あのイントネーション。今となっては私の妄想かも知れません…。でも私、本当は後を追てあの列車に飛び乗りたかった!              
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「むすめすさほせ」 [青春の残像]

「瀬を早み ~」、「はい」…。今日は遠い遠い日を思い出しました。かなり小さい頃から母と百人一首をして遊びました。と言いても勝つのは何時も母。私が読み上げ始めると数秒かからず返事がありその手にはもう絵札があります。
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母の晩年、認知症になってもしばらくの間「一枚札は むすめすさほせ だからすぐ覚えられるのよ」と言って「瀬を早み 岩にせかるる …」等と詠んでいました。その頃私は百人一首に出てくるようなたおやかな恋がしたいと、大人になっても思っていました。いいえ結婚してもそう思っていました。
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さて、恋の事はさておいて、私の身辺では断捨離が流行中。それと同時に自分が先立った後の連れ合いの生活(暮らし向きの事ではなく暮らし方)、平たく言えば料理洗濯など家事一般の事を心配して日々特訓中のご夫婦もいるのだとか。
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最近は心配する側が反転して女性が心配する側になってるのには何だか不思議。でもその現象って、妻の方が夫を愛している、そおいう事になるのでしょうね。私の場合も先に逝きたかったです。見送ってもらった方が寂しくないからです。でも叶いませんでしたけど。
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今夜はこの辺で、明日は仕事になります。おやすみなさい。
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寡黙の女(ひと) [青春の残像]

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寡黙という言葉、ミステリアスでありますが、調べてみたら古くは<未亡人の口数が少ないさま>を指す場合もあったようです。確かに未亡人か否かに関わらず寡黙の女性のほうが好感度が高い、すこし俗っぽく言えば「もてる」場合が多いらしいですね。
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さて私の場合、寡黙の女(ひと)であることへの憧れはあるものの、あまり好きではありません。人間関係を保つ努力には『話し合って、解りあう』我が人生はそれを真面目に頑なに実践してきました。しかし会話が邪魔になる時ってあるのですね。、そういうシチュエーションに居合わせたとき、寡黙であることが大人の会話なのかぁ~とふと思いました。
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昨日の事です。場所は近所の和食やさん。知人と食事をする私の姿がありました。ビールに日本酒少々では宴が盛り上がる訳もありませんが、内容はかなりシビアです。私の専門である歌談議に熱弁が飛び交う一方、私の心は楽しさとは裏腹に我が身の無力さを嘆いていました。
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ふと見るとまさかの光景、いつもは少しきついほどの眼力(めじから)がその時、全く別人と思わせるほどの慈愛の目に思えたのです。僅かな経験で『寡黙』を語るにはおこがましいのですが、口を挟まず寡黙になって聞く人になりきることが、心に同期出来る。それが幸せへの入口なのかもしれない。ふとそんな気がした春の宵でした。
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