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テレパシーを私に [夢半ば]

一寸先の事を読めないのが人生だと言われていますが、本当に考えてみれば私の人生も思いがけない事の連続でした。そして最終章に差し掛かってきた今になって、新しい挑戦を始めるつもりの私がいる事もまた想定外でした(笑)

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さて来年は兎に角忙しくなります。しかし体だけでなく出費も忙しくなります。何かを始めるという事は必ず経費が掛かると思われますので、分相応、身の丈でと思うのですが…、困ったものです。しかし不安材料ばかりではありません。場所も決まり、内容もほぼきまり、応援の方々も声を上げて頂いてます。不安がる事はありませんね。
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大掃除は昨日までにして今日はTVをみたり買い物したりお正月前の何となくそわそわした気分を楽しみました。しかし突然哀しみが沸き上がるときもあります。私はその為に寝室兼書斎に仏壇を置いてあります。ご先祖の位牌が沢山ある大きな桜の仏壇。私の父母と母の両親その子供達(幼くして亡くなった母の兄妹たち)の位牌です。随分多いですねと大概は言われます。

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祖母が九段下(東京)で暮らしていた頃からの位牌です。私は一人娘でしたから母から私へ遺されたものです。時々哀しみが襲ってくるとそのご先祖様の前で一心に祈ります。どうか名案があったらテレパシーを私に届けてと頼むのです。こうして孤独と祈りの2018年が過ぎてゆきます。

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久しぶりですレントゲン [夢半ば]

一瞬の事で何が何だか…。痛い「あら捻じれている?と思った私。左の胸も鈍く痛い。起き上がれないのです。顔が分厚い引き戸と布団の間にあり左腕の肘のあたりに体重が集中している感じが。「折れているのかなぁ~、この痛さ」思わずつぶやきます。
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数分間たってようやく左の腰のあたりにの鈍い痛み。絶望的にも考えられるシュチュエィションでしたが、無事だった右手で少しづつ体調を直し何とか立ち上がりました。実は今から外出する予定でした。
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一夜明けた今朝、以前使った貼り薬が見つかり左ひじにぐるぐる巻きました。しかし左肩の内側や左胸の脇も鈍い痛みが。今日は夕方まで仕事なので、このまま様子を見ることにしました。独り暮らしの辛さは痛みの哀しみも常に心に押し込めなくてはいけない事。孤独感の大きさは年毎に強くなります。

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仕事に出てはみるもやはり腕や胸が痛くて声も出せないので、仕方なく近所の整形外科に行くことにしました。教室から5分も歩けば着くところでした。先ずはレントゲンその後医師の問診んや診察。左ひじの一か所に[×]印が付きその後超音波治療を受けました。帰宅して暫くすると、何だか痛みが随分かるくなった気がしました。案外早く治るのではとの期待がしてきました。

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今夜はゆず湯。そしてこの日は昔から一陽来復を受けに穴八幡へ母と必ず行っていました。埼玉に来てからも随分行きましたが、ここ十年ほどは東京の友人が送ってくれています。この穴八幡様は商売繁盛の神様です。早稲田の家からは徒歩で10分程度でしたので12月の恒例になっていました。
※写真は小江戸川越のいろいろ。

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幸せは足から [夢半ば]

穏やかな午後の日差しに誘われて川越散歩。ではありませんが、仕事が終わった午後4時ごろ私は川越市役所に近い札の辻におりました。そこで観光協会に立ち寄り何処まで歩けるか試してみようと出発しました。

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一番街は今日もお客さんで一杯。車や人をなるたけ避けてカメラを向けながら歩きます。りそな銀行の建物には直ぐに着きましたので、路地に入ってみたのですが、お客さんが多すぎて顔も映ってしますので、諦めてもとの大通りに戻ります。

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ここではっと思い出したのはどら焼き。いつもKさんから頂く焼きたてのドラ焼き。ここしか売っていないのです。さらに写真を撮りながら見覚えのある角にでました。ここでは右折してお煎餅屋さんに伺う予定でしたが、水曜日の為か定休日の様でした。

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暫く行くと今度は左折、大正浪漫通りらしいのですが、お目当ての鰻屋さん、準備中でした。諦めてまた歩き始めると先日お酉様で来た熊野神社に出ました。そのまま直進、疲れが出てきたのでどこかで休みたいと思っていたら、餃子屋さん。中を見ると女性客もいたので私もカウンターに腰かけ、餃子に野菜炒めを注文。焼きたての餃子もモヤシ沢山の野菜炒めも美味しかった。

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店をでて更に歩きクレアモール通りを直進。家のそばを通りすぎ、カラオケ館さんへ。朝から声を出していなかったので1時間程練習。そして帰宅。家に帰ったのはもう7時近くなっていました。お腹は満腹なのに、買ってきたどら焼を食べて、TVの歌番組を見ながらウェスタで使うポスターやプログラムなどの下書きをつくりました。今0時21分、これからお風呂に入って長い一日が終わります。

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今夜は泪雨 [歌人生]

半年ぶりにお逢いしたTKさん、幾分ふっくらと思えたのはあの綺麗な色のセーターのせいだったのでしょうか。2時間ほど駅ビルの7階で食事をしながらの歓談、彼は相変わらずの辛口でした。今日の会話では途中一度だけ泪を流した私。恋人でも恋人以下でもない只の知人。しかし何だか切なく感じるのは駅前広場を飾るイルミネーイションのせいでしょうか。

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忙しい一日でした。嬉しい一日でした。盆と正月が一緒に来たようなウキウキする一日でした。それなのにやっぱり泪がこぼれます。出来る事ならもう一度、刻(とき)を戻したい!今ならきっともっと適切な選択ができたのに。ふと亡夫を思う。私を遺して逝ったことへの後悔はないのだろうか?ふと母を思う。貴女の娘は今も未だ愛することを躊躇していると。愛することも愛されることも出来ずに一生を終える私をお母さん、貴方はどう思いますか。

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駅前の道を風が亘る。今日も好い日でした。今夜も好い宴でした。二人だけのささやかな宴。遠い日に胸をよぎった感情がたとえ数秒でも私たちの間を流れた…。そう思う事にしました。夜の町はやっぱり寂しい。23日の予約をしに近所のカラオケ館に立ち寄った。その時、鏡に映る私の目にはまだ泪の後が…。今夜はこれでおやすみなさい!

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なに故に…今なの [黄昏に向かって]

極寒とでも言いたいほど寒い日が続いています。週明けからは寒さも和らぐとの報道もありますが、兎に角かなり寒いです。その最中になんという事かエアコンが故障。もう涙も出ません。転入から丸三年になるのにエアコンの手入れもしていません。業者さんを頼むのもあぐねている内にやっぱり故障。もしかしたら購入しかないかも知れません。

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一日目、日中はホッカイロを2ケ背中とお腹に張り付けて、夜分は湯たんぽで凌いでみましたが頭痛がしてきました。暖かいお風呂で温まってから湯たんぽを入れたて眠る事に。ところがPCの前での数時間や食事に化粧、じっと座って居る事ができません。家の中はTシャツでいた遠い冬の日々が思い出され、もう我慢の限界が来ました。その時、引っ越し時に知人から頂いた遠赤外線ストーブを思い出し使ってみました。ポート暖かさがあるのですが、冷蔵庫のような室内の温度にはとても敵いません。

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何故こんなことに? 勿論自分の部屋の冷暖房にも気を配るのが大人の暮らしの筈ですが、人生への甘えでした。30年間の歳月では亡夫のテリトリーだと思い込んでいました。しかし今は私が全部しなくては誰もいないのですから。大いなる誤算。命に係わる誤算でした。

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電気屋さんを呼んで早く直せばいいのに…、確かにそうです。しかし今の私そんな余裕はありません。来月から彼方こちらで小さなイベントをします。会場の予約も済みました。そんな時に予定外の出費は出来ません。しかし悲壮感はないのですよ。これもあれも自分を丸くする為の修行だと思う事に。明日以降は気温も上がるらしいので動物がしているように日中のうちに沢山太陽を浴びておこうと思っています。
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篤き想い [歌人生]

年齢が10年以上違うMさんとKさん、とてもチャーミングなお二人です。年の瀬も迫った私の教室、何時もなら大きな窓から燦々と差し込む筈の午後の日差も今日は僅かな時間でまた鉛色の空がひろがります。

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暖房があるのに何となく寒く、それではと歌い始めた私たち。ポピュラーあり演歌あり歌謡曲ありと後から来たYさんを含めて4人でいつもより少しだけ音量も上げてみました。暫く歌うと、体が温まり始めました。喉も少し乾きます。お土産に頂いたローズヒップ紅茶に大好きなチョコレートでお茶をすることに。新鮮なイチゴもいつの間にか並べられていました。

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楽しい、とても楽しい時間が流れます。私は思います。大きなステージで綺麗な衣装をつけ沢山の拍手頂いて歌うのも勿論楽しいけれど、今この瞬間、瞬間、魂の擦れ合う音がします。安堵感、充足感。表現が上手く出来ませんが、私は長い間この時間を待っていた気がします。『歌の先生』が天職だったかどうかはわかりません。しかし歌はに人をこんなにも幸せな気持ちにするという事、沢山の方に伝えたいです。

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篤い想いが発露となって、ついつい強い口調でじゃべってしまう事が多い私です。今日も気持ちはマックス。その時…「先生! 伝わりますよ~」との声が。ああ伝わったのですね、きっと。胸いぱいに暖かいものが広がります。開設から5年目の初冬の事。
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ここらでアップデート。 [黄昏に向かって]

最近Twitterを始めました。災害時に強いと思ったからです。また多くのフォローも頂くようになりました。其のつぶやきの中には はっとするような斬新な考え方。今までに考えたこともない発想は魅力的でもあり実践的だと思いました。

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過去は悔いるだけでは意味がない!一刀両断でしたがとても嬉しかった。ミュージシャンの若い方の様子を知ることができたのは大いなる収穫だと思います。何だか今までに経験しなかったような素敵な夢を見れるのでは。心の高鳴りを覚えます。

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20代.30代.40代の私は怖いもの知らず。夢に向かってひたすら進み続けていました。失敗も沢山しましたが、仕事が楽しく、母親になる事、全く忘れていました。今は大勢の孫や曽孫に囲まれている友人・知人にジェラシーしている私もいるけれど、仕方がないと簡単に諦めます。

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さて最近の川越、着物姿が本当に増えて来ましたね。私も口で言うだけではなく来年こそ着物ライフも楽しんで行けたらと思っています。母のタンスの鍵は紛失のまま。さてどんな知恵を使てここから着物を出したらいいのでしょうか? 今夜はひとまずこれで。おやすみなさい。

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ルージュと口紅 [青春の残像]

所謂、私自身を聞かれたら勿論『女性です』と言うに違いないけれど、最近は本当に女性らしい生き方してきたか疑問を持つようになりました。

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私たちの時代は『結婚』は女の目的に近かった気がします。23歳になった時、行き遅れてはと焦った思い出があります。当時はまだ学生だったのですが、四国から来ていたONちゃんが結婚したことを切っ掛けに私は急遽「結婚する」と母に言いました。誰と? 母は本当にキョットンとしていた気がします。

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子供時分から知っていた「YTさん」と空かさず答え、その秋に私たちは彼の母校にある大隈会館で挙式しました。私の家は早稲田で下宿屋さんを営んでいたのですが、お婿さんのYさんは、埼玉県川越に住んでいたのでした。私とは11歳違う大人の男性でした。

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川越の霞が関で新婚生活を始めたものの、何もできない私に連れ合いは吃驚、半年足らずで実家に私は戻りました。その後母の仲裁で、夫も実家に来て母と若夫婦とで暮らす事になりました。子供のできない寂しさに初めて犬を飼いました。アメリカンチャンピオンの血統を持つマルチーズです。彼女はあと2カ月で20年という長い期間を母の愛情に包まれて生きました。

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さてその母と私、事あるごとに母は私を手こずっていた気がします。18歳で祖母が亡くなり、結婚までの間、私は母に反抗し続けました。とにかく家から出たくて色々試みました。留学もその一つと時を伺っていました。その頃、早大理工学部のI先生がアメリカに家族で行くことになり、私にも勧めて下さいました。始終反抗している私への対策を考えてくださったのでした。

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先生は故郷の家族と離れ我が家に下宿されていたのです。早速先生から母に留学の件を話して下さったのですが、母は大反対。かくして私が憧れの国に行けたのはその35年ほど経ってからとなります。

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さて話は戻りますが、昭和43年の頃は東京の彼方こちらで区画整理が行われていました。私たちの新宿区早稲田にも道路を拡幅するための区画整理が始まり我が家は拡幅される大通りに面することに。しかし土地が30%以上を減歩されペンシルビルになるしかありません。母は悩んだ末、移転を決心しました。そこで義理の息子(当時の夫)の家がある川越に転居すると言いだしたのです。

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こうしてきっとご縁があったのでしょうね。母も川越の女(ひと)になりました。しかし同じ川越でも夫と私は北二丁目の家。母は東5丁目にアパート併用住宅を建てました。その頃の母は50代後半、私は20代後半でした。しかし運命とは不思議なもの、いいえ意地悪。移転して間もなく夫は海外に行くことになってしまったのです。東南アジアの某国。勿論社命で夫婦は同伴です。任期はなんと5年。勿論母は大反対。しかし私は夫と出発しました。しかし間もなく母が入院して私は呼び戻されることに。その後私は再び夫の基には戻れませんでした。33歳で離婚。所謂、女の厄年でした。

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私の母は化粧のする必要の無い程の美人でした。その点で私は母に相当コンプレックスを持っていました。こんな話があります。中学生の頃の事、「お母さん、もう中学生の親なのだから口紅つけるのやめて!」きっと睨みながら言った覚えがあります。多分PTAの会などでは着物姿に口紅つけた母は目立った存在でしたから私はそれを気にして母に言ったのだと思います。当時の私は色黒でゴボウのように細い女学生でした。

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そして母に対抗するように、私は20代を待たずに口紅を付けていました。しかしそれは母の様に真赤ではなく、バントピンクという淡い色でした。日本の口紅より艶がある輸入品の口紅。母は国産の口紅です。化粧する母の姿はまるで映画のワンシーンのようでした。そのふっくらした唇に朱赤の口紅を塗り、最後に小指ですぅーとなぞります。そして満足そうに鏡を見る母。綺麗でした。本当に絵のように綺麗でした。
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母は口紅をつけ、子供以上女未満の私はルージュを付けて、やがて私は妻になりました。まさに女の宿命です。そして今年で75歳になった私、どんな巡り合わせでこうなったのか国産で無香料の安価な口紅を愛用しています。それも一番赤い、母の口紅と同じ朱赤の口紅。やっぱり母娘だからなのでしょうね。
 (※今日は写真がなくて昨年12月に撮ったものを使っています)

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舞台への想い。 [夢半ば]

めずらしく朝から外出、川越西口にあるウェスタ川越まで行く為です。来年4月、音楽室の使用料を支払う為です。今日が期限でした。1月~4月まで毎月開催することにした勉強会、いよいよ現実的なものになってきました。チラシの準備も始めなくてはいけません。明日、明後日の休日中に完成させます。

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私は自分で言うのも変ですが本当に可笑しい性格です。何故かと言えば、今のままの静かな生活でも充分なのに、無理に苦労を買ってしまうのです。来年に向かって沢山の計画を次々に具体化しています。その代わり経済的にも肉体的にも心理的にも負担は増えるのですけれど。しかし現状維持がどうしてもできないのです。昔から一つ成就すればすぐにも次の仕事へ取り掛かる。これが生活のパターンだからです。

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こうしていよいよ長年の夢に向かって少しづつ夢を形にしてゆきます。スタートの1/31、来場者数はは全く予測できませんが、それでも開催することが大切だと思います。一回目より二回目、二回目より…、それが大切な事だと思います。2時間という時間は講座への参加ですでに20回以上の経験があるので、時間の使い方は心配ないと思います。

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先日探し物をしていたら出てきたのが2009~2014迄の記録、ステージ出演は大小合わせて62回ありました。その間にはTVの生出演やプロモーションビデオでのTV出演もありました。数カ月に亘るヘビーローテーションが2回あります。その他修行中の2006年から2008年までのカラオケ大会出場回数の150回を加えると200回を超えるステージ経験になります。流石に自分でも吃驚。出来る事ならもう一度だけう、出てみたい…と、時々想う事もあります。
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演歌は暮らしの歌 [歌人生]

明日12月6日は教室から出て川越市にある公民館の一つ、伊勢原公民館への出張です。公民館での講座は全8回の長丁場、明日はその三回目、テーマーは『演歌』について。私と演歌の出会いは多分60年程前になる筈です。10歳ごろの事です。懐かしのその曲は神楽坂はん子さんの芸者ワルツ。先生は母でした。

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当時の母は未だ30代、着物姿の母は子供心にも見とれる程の美しさ。近所でも評判の江戸前の好い女。また戦争の傷跡が彼方こちらに残る時代でした。神楽坂は私の家からも近く、私たち(祖母と母と私)は音羽から早稲田へ引っ越して間もない頃でした。
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母は家にいる時でも着物姿が多く、近所の日本舞踊の師匠さんへ私を連れてよく通いました。私が最初に教わったの端唄の梅にも春。母は当時は流行っていた博多夜船でした。目の使い方がとても印象的でした。
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その私たち、母から社交ダンスも習いました。二人で芸者ワルツを歌いながら母のリードで踊ったのです。小学校で一度この歌を唄って叱られました。優しい先生で父の無い家庭と知っていたのですが、それでも「都ちゃん、そのお歌はお家でね」優し諭してくれました。
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さて話を『演歌』に戻しますが、演歌は暮らしの歌なのです。かつては日々になかにあった日本の暮らし、夫婦の愛、親子の愛、家族愛、そして男と女の出会いや別れ。人生の総てが演歌にはあるのです。それをそれぞれの歌い手が咀嚼して更に客観的に聞く人の心に伝える。それが演歌です。勿論いろいろな解釈はあるとは思います。微力ですが、その想いで明日の講座へ望みたいと思っています。

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