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演歌って、演歌って…。 [演歌人生]

若い頃、そう十代の終わりのころはよく深夜放送を聞いていました。部屋の真ん中に大きな柱がある私の部屋、当時の下宿屋は殆どが3畳一間です。今考えれば随分生意気な娘でした。その部屋になかで毎晩12時、1時までは起きていた私。「みやこちゃん、早く寝なさい!」ドアの外で母が声掛けをします。母は勉強していると思っていたのです。しかし私、大概ラジオを聴いていました。殆どが軽音楽、クラシックはありませんでした。
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そんな時代はもう遥か遥か彼方。でもあのころの何とも言えない、未知へのあこがれのような想い、今でもわかる気がします。歳はとっても、案外人の本質は変わってないのでしょうか、それとも私だけが成長していない?(笑)
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さて今日の本題は演歌って、です。この場合、演歌に属する歌そのものではなく、私の人生って、本当に演歌のようだからなのです。3歳で父を失い母・祖母・私の三代の女だけで17歳まで暮らしました。私とは似ても似つかない美人の母、映画のニューフェイスにも受かったというハンサムな父、本当ですよ(笑)の間に生まれた私、男の子のような女の子でした。
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これが、私の宿命だったのです。父のいない子はやっぱり苛められました。私が6歳ごろ私たちは早稲田に引っ越したのです。しかし引っ越しから1年ぐらいの間、祖母と私はその家を朝から夕方までよく空けていました。音羽にある映画館で時間を過ごしていたのでした。今思えば母の大切な人との時間だったのですね。そのお蔭で私は何不自由なく暮らせました。
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音羽から早稲田へ、新しい家は庭も広く、私はぐるりと板塀で囲まれたこの庭で遊んでいました。コスモス、あやめなどが印象に残っています。大きな井戸もありました。その家で祖母と暮らせたのは17歳まで。生まれてからいつも一緒だった祖母は73歳であっけなく他界。大きな支えを失った気分で、思春期の私は母への抵抗が強くなり始め学校から帰ると家業は手伝わず、急いでバスに乗り渋谷に出ます。そして初めて知った社交ダンスの味。その後数年間は、青春のすべてをかけました。
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20歳過ぎても、私の母への反抗は収まらず、近所のテラーで高額な洋服をオーダーしたり、銀座でチャイナ服を注文したり、西銀座で輸入物のハイヒールを買ったりと、私が親なら、家から追い出したいと思ったに違いありません。しかしそんな愚かな行為でしたが、その経験は今となっては貴重です。その後の生活に大いに役立ちました。
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ここからは初めての失恋、即断即決の結婚等々面白い話が沢山ありますが、いずれにしても破天荒な青春でした。そして歌との出会い。そのお話しはまたいつかさせて下さいね。では今夜はこの辺で、皆さまお休みなさい。読んでくださってありがとうございます。
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